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白樺寄語

中国近代建築・史跡・中国語・中国生活

   

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文官屯の鳥居(遼寧省瀋陽市七二四地区)

瀋陽市大東区文官屯。

ここは「陸軍造兵廠南満工廠奉天製造所」があった場所で、
8000人もの日本人が働いていたと言われる。

解放後、「国営七二四兵廠」としてその生産が引き継がれ、
現在は瀋陽東基集団有限公司となっている。
「七二四」と略して呼ばれる。



この七二四地区は旧満州時代から兵器生産の重要拠点であり、
当時の地図や資料も少ない。新京(現長春)に至る南満州鉄道の反対側には
「文官屯飛行場」なるものがあったらしいが、その場所も現在は定かではない。
「奉天北飛行場」は今も「北陵軍用飛行場」として健在である。

「奉天北飛行場」は張作霖の後を継いだ張学良によって
1929年に建設されたもので、満州事変後、
「奉天北飛行場」として整備拡張されたものである。
清朝末期及び張父子の率いる東北軍の大本営「北大営」にも近く、
このエリアはかつてより軍事上重要な役割を果たしてきたと言うことができる。

※「北陵軍用飛行場」は中国最大の戦闘機製造メーカーである
「瀋陽飛機工業(集団)有限公司(略称:瀋飛)」の軍用飛行場。
「瀋飛」の前身は1930年に張学良の手によりこの場所で創設された
航空機製造会社。現在も中国の新鋭戦闘機「殲シリーズ」などの
開発・製造が行われている。


(文官屯周辺地図。満州事変発生地である九一八歴史博物館にも近い。)


(文官屯エリア周辺地図のオレンジ色で塗りつぶした部分が上の衛星写真。)



線路沿いに南北に走る幹線道路が「望花北街」。



「望花北街」から文官屯駅を望むことができる。
周辺は石炭・木材の巨大な集積場となっており、駅も貨物駅として
使われているようだ。





駅へは線路の西側にある文官屯村からのアクセスとなり、
「望花北街」からのアクセスはできない。
「望花北街」沿いにも門があるが、閉鎖されていた。

当時は奉天駅から首都新京へ向かう途中の最初の駅であり、
兵廠関係者の乗降があったようだが、現在その面影はない。

この「望花北街」を金山路から北上すると「遼寧兵器工業大学」の敷地内に
鳥居を見ることができる。これは、かつてこの地にあった「文官屯神社」の
鳥居で「遼寧兵器工業大学」の東西に2つある。(衛星地図を参照。)

残念ながら大学内に入ることができなかったため、柵越しの撮影となった。




衛星地図上の「鳥居②」の写真。

白樺の林に埋もれ、忘れられた過去の遺物となっている。
社殿は見当たらなかったが、中国のサイトでは社殿跡らしきものが
存在するとの記事もあった。


「鳥居①」の写真。

「遼寧兵器工業大学」東門の外にあり、「五二工廠職工烈士記念碑」の
ある墓地が隣接している。(写真は墓地から撮影。)


鳥居奥に見えるのが遼寧兵器工業大学の東門。


鳥居の一部が脱落しかかっている。

地元の一部の人もこの鳥居が日本の神社に関係する建造物であり、
偽満(wèi mǎn 旧満州国の中国での呼称)時代の遺物であることは知っている。

誰が補強をしたかは知る由もないが、目的は別にしても
歴史を大切にする人の手によるものだろうか。
文物保護の指定も無いにも関わらず、今日までその形を残すことが
できているのは奇跡と言わざるを得ない。


柱には廃品回収の広告。

「日語班」の文字は、恐らく日本語教室の広告だろうが、この建造物が
日本の満州統治と関わるものと知っていてこの広告を出したので
あれば相当なものだ。(その可能性は無いと思うが。)



「文官屯神社」の建立時期は不明だが、「南満工廠奉天製造所」が
昭和13年(1938年)の設立である点から、約70年が経過している
と思われる。

ちなみにこの「南満工廠奉天製造所」の前身は張作霖の私設兵器製造所である。

隣接する墓地(「五二工廠職工烈士陵園」)には数基の墓標があった。
雑草が生い茂り、一部は畑となっており、墓標も崩れた状態だ。

盛り土をした上に一際目立つ「五二工廠職工烈士記念碑」がある。



「五二工廠」とは、瀋陽東基集団の前身である「東北機器製造廠」の
解放したばかりのころの名称らしいが、碑が建てられた理由をネットで
検索しても詳しいことは分からない。恐らくは日本撤退時に工場の争奪を巡って
紛争があったのではないだろうか。



墓地の状態から見ても、忘れ去られようとしている歴史なのかもしれない。
碑は正面が北を向いており、裏には1950年の建立とある。

「遼寧兵器工業大学」の東側、東機街沿いには旧南満州鉄道からの
引込み線(?)があり、兵廠方向へと続いている。

柵もなく、線路の錆から現在は殆ど使われていないものと思われる。



線路は東の兵廠方向への引き込みだけでなく、文官屯駅北500Mほどの
位置から西へも引込み線が延びている。この線路も線路西の工場まで
延びているようだが、詳細は分からない。


(文官屯村北端から東を向いて撮影。)


(文官屯村北端から西を向いて撮影。)

この付近にかつて「文官屯飛行場」があり、
そのための引込み線であったと考えるのは飛躍しすぎだろうか。

いずれにせよ、当時の一大軍需産業基地を彷彿させるような規模を感じた。


余談だが、文官屯村への立ち入りは注意が必要だ。
東北地方独特の平屋造りの家が密集しており、生活ゴミの収集も無いのか
道脇に山のようにゴミが詰まれ、犬が群がっていた。

高層ビルが雨後の筍のように建てられている市内の発展から
取り残されている観があり、村民の表情も硬いように見え、
結局最後までカメラを取り出して撮影することができなかった。


<参考資料>
http://ksa.axisz.jp/OM2-01Hoten.htm
http://blog.goo.ne.jp/isokawas/e/cb6c26b98e4d9f1e4c22cf9f8e0da2a5
http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/kaigai.htm
http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/gunto_077.htm
・Wikipedia
・百度百科

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昨日7/13に現地へ行きました

  • by 佐保
  • 2013/07/15(Mon)16:58
  • Edit
佐保と申します。出張のため瀋陽に来ています。
昨日休日だったため、自転車で現地に行きました。本HPによりスムーズに行く事が出来ました。有難うございました。鳥居の左部分は折れて下を向いた状態となっていました。もしご興味があれば送信させていただきます。

Re:昨日7/13に現地へ行きました

  • by 白樺寄語
  • 2013/07/18 22:38
>佐保と申します。出張のため瀋陽に来ています。
>昨日休日だったため、自転車で現地に行きました。本HPによりスムーズに行く事が出来ました。有難うございました。鳥居の左部分は折れて下を向いた状態となっていました。もしご興味があれば送信させていただきます。
>
コメントありがとうございます。お役に立ったようで嬉しい限りです。自分はすでに瀋陽には住んでいないのですが、友人から鳥居が折れているという話は聞いておりました。ぜひ写真を送信ください。現状としてアップさせていただきます。(baihuajiyu@gmail.com)
瀋陽には当時を偲ばせる遺物が多く残っています。瀋陽の古地図を見ながら散策というのもなかなかのものです。(古地図もブログに掲載しています。)

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年齢:45
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職業:会社員
趣味:中国を知ること。
自己紹介:中国生活16年になりました。

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